雨が強くなってきたが,筆者達はそのようなことは気にしない.余程の豪雨でない限り,雨を理由に退散することはない.少し周辺を探索する.住宅地域の奥は行き止まりで何もなかった.事務所と工場地域も念のため一通り見回し,車に戻った.今度は事務所から少し離れた場所に体育館のような建物があるのでそこに行ってみることにする.
狭い道を100メートル程,木に囲まれた崖上の島のような土地にそれはあった.「銀嶺会館」とある.どうやら地域の公共の講堂のようであった.建物は鉄筋で内部もしっかりしており,入口に何故かテレビが1台置いてある.造りは学校の体育館と同じで,正面奥が舞台になっており,「神岡鉱業」と大きく書かれた赤い幕が下ろされている.床は綺麗だが,その一面に,何と表現すれば良いのか判らないが,10メートル四方の巨大なプラスチック若しくはゴムのシート十数枚がくるまって置いてあるのだ.巻いてあると言っても元が巨大なのでその口径は1メートル程になっており,肉厚の薄い土管の如きである.色は肌色とでも言おうか.巻かれたその上に筆者が載っても弾むばかりで潰れたりしない程それは硬い.元々ゴムのように柔らかかったのが材質が変化して硬くなったのか,或いは初めからこういう材質であったのか,さらには用途やどうやって運び込んだのか全く想像もつかない.
舞台の左右には立派な舞台装置や照明装置が並び,幕の後ろには「さようなら栃洞公演」でもしたのだろう,発泡スチロールや厚紙・ベニヤ板等で造った装飾や小道具などが置いたままになっていた.さほど昔の物でない.
その講堂の隅に,移動式の黒板が置かれている.黒板には幾つか落書きがしてあり,「何年振りに来ました」・「また来ます」等の文字が日付と名前と共に書かれている.日付は最近のものもあり,文体や字体も年配の人という感じではない.恐らく,当地出身の若者が時折訪ねて来るのであろう.栃洞がつい最近まで現役だったことを考えれば,落書きの主が若くても不思議はない.彼らは一体どのような想いでここを訪ね,この黒板に思いを残したのであろうか.
講堂を出て車に戻る.主要箇所は大体見終わった.残るは,来る時に通った謎の空き地である.ただの空き地ではない.小道が縦横に走り,家屋や街灯の残骸が所々に残る.ちょっとした街のようにも見える.車で2周程してみたが,目で見える物以外はこれといって何もない.
諸先輩の記録によると,ここはちょっとした住宅街になっており,民家や商店が建ち並んでいた.それとてここ十数年程しか以前のことではないという.
日も暮れてきた(元々曇だったが)ので栃洞を後にした.選炭場の下の方を見ることができなかったのは後ろ髪を引かれる思いだが,次回は十分に下調べをしてまた来よう.そう言い聞かせながら山を下りた.
神岡の街に戻り,茂住の事業所へ立ち寄る.しかしこちらは立ち入り禁止になっており中に入ることはできなかった.外から中の様子を少し窺っただけで街に引き返す.
再び街へ.「スカイドーム神岡」というテーマパーク兼ドライブインのような所へ寄る.ここには神岡の観光や産業等について展示や解説があり,また土地の土産物も豊富で良い.軽食コーナーでは地元の名産品も味わうことができる.しかし鉱山の軌道や大津山に関しては触れられてはいない.
土産を買い求める同行者.同行者その2はまだ学生で,級友やアルバイト先の仲間への土産だと言うが,果たしてどれだけの人間が「神岡」という場所を知っているだろうか.勿論その土産コーナーには「飛騨」や「高山」といった有名な観光地のブランドの品もあるが,地元神岡の名を冠した物もある.筆者としては神岡ブランドを取りたいところだが,一般向けには飛騨や高山の方がよろしかろう.但し,鉱山関連商品や宇宙関連商品であれば一般にも喜ばれそうであるが.
神岡を後にした筆者達はお決まりコース,つまり平湯・松本・軽井沢(夕食)を経由し帰途につくのであった.
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やや下にある坑道.
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上の坑口.
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修理部屋.
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スケールの小さなマンション.内部の配電盤に「昭和28年」とあった.
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火の用心.
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